たたらの里 奥日野へ、ようこそ!

鉄の惑星=地球上で有史以来、人類文明の礎となってきた鉄。

六世紀に始まったとされる日本独自の製鉄方法が

砂鉄を原料、木炭を燃料として用いる「たたら製鉄」であり、

刃物に最適な素材、玉鋼を産出する優れた技法でした。

 

近代において1回の操業に要した砂鉄と木炭は各々十数トンずつ。

砂鉄を得るために、冬場、水を一種の道具として用いて「鉄穴流し」を行い、

「炭焼き」で木炭を得るために、伐採した木々の再生を待って

たたら場を移動するという、自然環境と共存する形で在った

世界にも珍しい形態の鉱工業でもありました。

  

中国山地、特に奥日野と奥出雲をその主産地として、

船通山を源流とする日野川と斐伊川の上・中流域で

大正10年に終焉を迎えるまで、千年以上にわたって代々伝承され、

連綿と続けられてきた「たたら」。

 

国宝「童子切」や重要文化財「鬼切」で知られる平安時代の名刀工、伯耆安綱は

ここ奥日野で、たたら製鉄によってもたらされた優れた鋼を用いて

これらの名刀を鍛えることができたとも言われています。

またよく知られた、船通山を舞台とする「八岐大蛇神話」は

その描写から「たたら」を象徴した物語とも言われ、

日野川と斐伊川、このふたつの「火の川」が運んだ大量の砂によって

その下流域、すなわち中海・宍道湖圏域にも、地形の形成はもちろん、

鉄の流通などを通じて、文化や精神風土の形成にさえ

おおきな影響を及ぼしてきたものと考えられます。

 

まさに「たたら」を抜きにしては山陰を語れないと言っても

決して過言ではないでしょう。

 

純度の高い鉄鉱石と、即燃料として使える石炭を用いる西洋鉄。

対して、原料の砂鉄と燃料の木炭調達に多くの手間を要する「たたら」。

幕末から流入し始めた、その安価な西洋鉄に押されて、

「たたら」は否応なく斜陽化の途をたどり始めますが、

 

たたらに携わる2万人もの人々の暮らしを支えるため、

また、急増する鉄の需要に応え、日本の急速な近代化を支えるために、

根雨の大鉄山師、近藤家はその優れた経営手腕によって

「たたら」を支え続け、こうして明治期、奥日野のたたら生産量が

最大となったのは、実に皮肉なことだと言えます。

 

 

幕末から明治〜大正と奥日野のたたら産業を支えた根雨の大鉄山師、近藤家。中央はその中興の祖と称される五代当主、喜八郎。

 

喜八郎がコスト削減のため、蒸気機関や水力を活用した送風機を導入して明治21年、旧溝口町に作った新鋭の工場、福岡山鉄山全景。


 

しかし明治38年、国営八幡製鐵所が本格稼働を始めると、

やはりこの大きな時代の流れに抗することは叶わず、

近藤家は製炭業や木酢を使った化学産業、西洋の特殊鋼販売など

経営の多角化を推し進めて、たたら廃業の危機を回避したものの、

大正10年、奥日野におけるたたらの炎は、すべて消えることになりました。

 

そして今こうして、産業としてのスケールや、国史や周辺地域に与えた

影響の大きさを想像してみると、今一度そこに光を当てて再評価すべき歴史、

次世代に伝えるべき誇りある歴史だと、私たちは確信しています。

 

目の前の山々や田畑、その何気ない奥日野の風景の中に、

かつて隆盛を誇った「たたらの記憶」は確かに残っています。

また興味深い、さまざまなお話も残されています。

 

私たちがご案内します。

ぜひ一度「たたらの里、奥日野」を訪ねてみませんか。

 


伯耆国たたら顕彰会/奥日野ガイド倶楽部